夜が嫌いだ。生あるもののほとんどが眠りにつくこの時間、命なき者は悠久の時と言う拷問器具にかけられなくてはならない。要するに暇だと言うことだ。そんなくだらない事をぼんやりと考えていたら、突然少年が喋りだした。
「僕、三日月って嫌いだ」
「三日月」とわたしは繰り返す。月ではなく三日月。限定したと言うことは月自体は嫌いじゃないと言うことで、それが意味するのはって言うかそもそも少年は何を言いたかったのか? 一人で思考の渦にはまりかけていたら、少年が怪訝そうな表情でわたしを覗き込んできた。わたしは曖昧に微笑んでみせる。
「いえ……月が嫌いですか」
「特に三日月がね」
なに自分の中で完結した事を尋ねてるんだ。死者に時間や老いは存在しないとはいっても、ボケてしまったか。わたしはため息をつく。
ふと、少年が立ち上がりカーテンを閉めてしまった。鋭くとがった三日月が青いカーテンに遮られてしまう。
「あけてた方がいい?」
少年がそう尋ねてきたので、わたしは首をふる。きみが望まない事をわたしは望みませんよ。そう言ったら怒られそうだ。
ぎし、とベッドが軋んだ。少年がわたしの傍に座ってくれたので、わたしは心の中で少なからず喜ぶ。きみの言動一つで、わたしはこんなにも舞い上がるんですよ。娘――いや息子とのコミュニケーションに飢えた親。ちょっと切ないけれど、表現としてはあっていると思う。
とは言え、わたし達は何かを成すでもなく、ただ沈黙を守っていた。そもそもわたし達に共通の話題などない。少年やわたしが呟いたことを二人で掘り下げる事はあるけれど、大抵は途中で途切れる。今の私たちのように。
それにしても、少年は美しい。細い暗灰の髪はやわらかく、死人のように白い肌にかかっている。頬や手腕に刻まれた無数の傷跡さえなければ、彼は美少年として売りに出せそうなほどだ。いや、売り出すなんてこと、絶対にしないけれど。ただとにかく美しい。わたしはそう思っている。これは親ばかと言う奴だろうか。
少年は何と言うか、夜を表現するような姿をしている。瞳に宿る赤も、ちょっと不気味ではあるが十二分に夜に映える色だ。
「はあ?」
いつの間にか何か喋っていたらしく、隣から素っ頓狂な声が飛んできた。たぶん、夜が似合うとかそんなことを言ったんだろう。わたしはゆるく破顔する。
「夜は暗いでしょう? 暗がりにとけるきみは、凄くきれいですよ」
そうからかい半分に言ったら、「あんたの方が溶け込んでるよ」と軽くあしらわれた。現実的に考えて確かにわたしの方が溶け込んでいるのは確かだ。うん。笑みがおさまらない。わたしは表情を見られないようにするため、少年のやわらかい髪に手を伸ばした。少年は心地良さそうな表情をしてくれた、気がした。
「あんたさ、それ、虚しくない? さわれもしない髪をいじり続けてさ」
皮肉交じりの声に、わたしは手を引っ込める。考えてみれば、わたしは何故少年の髪に触れていたのだろう。改めて問うと、答えがすぐに出てこない。少し考えて出てきた答えは、至極簡単なものだった。
「わたしは好きでやってるんですよ。きみは髪を触られるのが嫌いですか」
実はこっそりとちょっとした願望も入っているけれど、それはきみが知らなくていいこと。
「別に」と少年は呟く。「あんたの手つき、優しいから気持ち良いんだろうな、とは思うけど」
そして、少年は自分の髪に触れ始めた。髪のことを気にしていない者だからこそできる、ちょっと乱暴な扱い。ああもう、そんなに髪質を悪くするようなことしないで下さい。気づいた時には、わたしは少年の髪と手にふれていた。
ふれたと言うことに気づいたと同時に、わたしは死者で、少年は少年である事を再認識する。わたしは彼を拾わず、彼はわたしを知らぬままあれば良かったと思ってしまう。
ふと少年の様子を伺ってみれば、彼は至極冷静な表情だった。わたしは苦笑する。少年にとって、わたしは保護者だ。それ以上の関係を持ちたいなど、世迷い言を呟いている暇はなかった。
「わたしの体はただのつめたい空気でしょう」とわたしは笑う。「寂しいものです」
少年は少しだけ痛ましい表情をして、それを隠すように首を振った。そしてもそもそとベッドに寝転ぶ。珍しい行動だ。
「寝ないよ」と少年は不機嫌そうに呟く。
分かっていると頷けば、少年はぼんやりとした表情で手を伸ばした。それはわたしに向けられているものではなかったけど、わたしはその手を握る。
「え」
少年の目が驚愕の色に染まる。その表情はひどく滑稽で、愛しい。
「なん、なんでおれ、あの、え……え?」
少年の一人称が素に戻ってしまっている。これは貴重な体験だ。しっかり覚えておかないと。わたしは一人笑いながら、少年の手を放す。いつもはふせられているつり目が丸く開いていて、幼い顔立ちが更に幼く見えた。
「きみの手は、やっぱりまだやわらかいですね」
痩せぎすの少年の手は、当然骨ばっていて、けれど幼さに由来するやわらかさも残っている。けれど肌は荒れ気味なようだ。まったく勿体ない。
「ただの幻想です。わたしはきみにさわった気になっている。きみはわたしにさわられた気になっている。そんなにうろたえなくても良いじゃないですか」
いい加減にパニック状態から救い出してあげようとしたら、少年はきつい表情でわたしを睨んだ。
「驚いてるんだよ、なんだって、その、手、さわれたの、手、なんで」
「幻想です。ほら、わたしの手はただの冷気ですよ。忘れちゃったんですか」
わたしは少年をだますために、再び手に触れる。今度は肉の感触はせず、いつものようにすり抜けるだけだ。
笑みがこぼれるのを抑えきれない。ポーカーフェイスとやらにはわりと自信があったのだけど、この少年相手にはまったくの無力なようだ。
少年は何かを言いたそうに唇をかんでいたけど、わたしはそれを気にしない。
「きみがここまで驚くとは思いませんでした」
「僕も驚いてるよ」と少年は盛大なため息をつく。「あんたはたまに意地悪だ」
不機嫌そうな表情を見ていると、ふと何かと重なった。それはつい最近見たもののような気がして、わたしは辺りを見回す。きょろきょろと小動物のように首を動かしていたら、少年が怪訝そうな表情をする。わたしは慌てて彼に視線を合わせる。
「新月」
悩んだ末に出てきた言葉は短かった。けれどその言葉でわたしの中でかすみがかっていたイメージははっきりとした物になり、わたしは一人で何度か頷く。少年はやっぱり怪訝そうな表情のままだ。
「きみはね、夜がとても似合うと思うんです。でも、月は似合わない」
わたしが説明すると、少年はため息をつく。少年は誰と会話してもため息が多い。幸せ逃げちゃいますよ。けれどあんまり少年を置いてけぼりにすると拗ねてしまいそうなので、わたしは少年を見る。
「夜と月はイコールで繋がりません。だから新月です」わたしは前置いて言う。「きみには夜の暗がりと、その空気がすごく似合ってます。でも、誰かを照らす役目は向いてないと思ったんです」
賢い少年なら、わたしの言いたい事を理解してくれるだろう。いやでも、少年は時々人の話を全く聞かないから。そう思っていたら、案の定少年は曖昧な声を出す。
「あんたは月だね。青白いし、なんか光ってるような気もするし」
「月ですか」
確かにうすぼんやりと発光しているが、何か違うと思う。
わたしは自分の髪をなでつけ、服を確かめ、失ってしまった足先をつかむ。失っているので、見ること、そしてつかむことができるのは糸のように先ぼそったしっぽもどきだが。
そのしっぽもどきをつかむと、わたしはバランスを失う。空中に浮いているのにバランスなどあるのかと思ってしまうが、幽霊には幽霊なりの法則があって浮いているのだ。
わたしはくるくると車輪のように回転する。
手を離すとやがて勢いはおさまり、わたしは先ほどまでの体制に戻った。
くだらない一発芸などどうでもいいのだ。私は少年の言葉を思い出す。
新月。月のない夜。そしてわたしは月。夜にしか視認されないみじめなもの。そういえば新月は姿を持たないとは言え、月であることにかわりがなかった。
「気に入りませんね」
その言葉に、少年は不思議そうな表情をした。「なんで?」
自分で言っておきながら、新月と言うのは間違った表現だった。わたしが月だというのなら、きみは夜だ。両方が月では、傍にいることができない。新月も夜もそう違いはないことだし。
しかし口には出さずにおいていたら、少年は機嫌を悪くしてしまったようだった。首元まで覆っていた毛布を一気に被り、すっぽりと隠れてしまった。
「ああ」わたしはこぼす。「そんなに拗ねないでください」
しかし一度機嫌を損ねてしまって、そう簡単に治ることはない。わたしはため息をこぼしながら、ベッドの傍に腰を落ち着けた。
意固地になったのか、少年は完全にわたしを居ないものとして扱うつもりらしい。布団と言う名の要塞に立てこもりを決めて、絶対に顔を出そうとはしない。きっとわたしがここにい続ける限り、眠るまで立てこもりを続けるだろう。
少年はおそらく、わたしが去ることを望んではいない。意地っ張りな分、こういう時は少年の気持ちをたやすく汲み取ることができる。
だからわたしは、もう何も言わず、ただ部屋の中を漂うことにした。
時計すら存在しない空間で、少年の吐息と布擦れの音だけが微かに響いた。