月が嫌いだ。特に三日月。にたにた笑ってるようで、どうにも腹が立つ。僕は夜空にまで笑われなくちゃならないのか。そんなことを呟いたら、となりに浮かんでいた幽霊は難しい顔をしてしまった。てっきりいつものように笑い飛ばす物と思っていたから、僕は幽霊の顔をのぞきこむ。女性的な顔立ち、長いまつげ。透明な赤い瞳は物憂げに伏せられていて、絵になるよなあなんてことをぼんやり考える。
「どうしたの」
「いえ……月が嫌いですか」
「とくに三日月」
幽霊は納得したのかしていないのか、浅いため息をついた。僕は憎たらしい三日月から逃げるため、カーテンを引く。幽霊が「あ」と名残惜しそうな声を出す。
「あけてた方がいい?」と尋ねれば、幽霊はかぶりを振った。……今日はいつにも増して無口だ。僕も黙ったまま、ベッドに腰掛ける。沈黙が部屋を支配する。
十分以上は経ったと思う。僕たちは言葉を交わすこともなく、お互いの思考の中に沈んでいた。今日も眠気はやってこない。
「きみは夜が似合う」
唐突にそんな事を言うものだから、僕は思わず変な声をあげてしまった。何だいきなり。幽霊はおかしそうな表情をしている。
「夜は暗いでしょう? 暗がりにとけるきみは、凄くきれいですよ」
「あんたの方が溶け込んでるよ」
意図がつかめなくて、僕は軽く受け流す。ふふ、と幽霊は笑った。元々理解しがたい性格をしてるけれど、今日は特に訳がわからない。幽霊が僕の髪に手を伸ばしてきた。僕は目を細めてそれを受け入れる。
「あんたさ、それ、虚しくない?」
「むなしい?」
さわれもしない髪をいじり続けてさ。皮肉を込めて笑ったら、幽霊は意外にも返事をしなかった。悪いことを言ってしまっただろうか。
「むなしい」と何度も呟きながら、幽霊は俯く。手を添えて口元を隠すのは幽霊の癖だ。生前からやっているのかな。尋ねれば答えてくれるだろうか。
「わたしは好きでやってるんですよ」と幽霊は笑った。「きみは髪を触られるのが嫌いですか?」
「別に……あんたの手つき、優しいから気持ち良いんだろうな、とは思うけど」
自分の髪に触れてみる。細くて指通りは悪くない。けどさわり心地はどうなんだろうか。変な切れ方をしているのか、所々に違和感を感じるし、決して良い髪とは言えないと思う。だけど、幽霊は楽しそうに僕の髪をいじり続けるのだ。
すう、と冷たいものが僕の手に触れた。目で確認しなくてもわかる。彼の、幽霊の手が触れたのだ。僕らの手が重なったことに幽霊も気づいたらしい。上機嫌そうだった表情は一変して、寂しそうな色を帯びる。まるで年頃の女みたいにくるくる表情が変わる。でも、そこにあんたの感情はないんでしょう。
「わたしの体はただのつめたい空気でしょう? 寂しいものです」
そう言って、今度は自虐的な笑みを浮かべた。僕は首を振ってベッドに横になる。眠くはないけど、起きているのはだるい。幽霊がちょっとだけ驚いたように目を開く。
「寝ないよ」
「ええまあ」と幽霊は曖昧に頷いた。「きみが夜行性なの、よく知ってます」
僕は頷いて、手を伸ばす。この手は失った力や、きっと自分の気持ちすらつかめなくて。そんなくだらないことを考えていたら、ふと冷たい「手」の感触がした。僕は多分、何か変なことを叫んでしまったかもしれない。よく覚えてない。だって、
「きみの手は、やっぱりまだやわらかいですね」
そんなことを幽霊がのたまうものだから。僕はもう自分が何を言っているかすらわからない。何も喋っていないかもしれない。焦っている僕とは対照的に、幽霊は冷静な表情をしている。ああむかつく。
「ただの幻想です。わたしはきみにさわった気になっている。きみはわたしにさわられた気になっている。そんなにうろたえなくても良いじゃないですか」
「驚いてるんだよ、なんだって、その、手、さわれたの、手、なんで」
「ふふ」と幽霊が憎たらしいまでに清々しく笑う。「幻想です。ほら、わたしの手はただの冷気ですよ。忘れちゃったんですか」
幽霊は再び僕の手を握る。けれど肉体と霊体は重ならない。ただ、冷たい何かが僕の手を包んだだけだ。
僕は口を閉ざすけれど、決して納得したわけじゃない。いつか、絶対タネを明かしてやる。それまでは絶対に成仏させてやらない。タネが分かってもさせるつもりは無いけれど。
「なんて言うんでしょうね、きみがここまで驚くとは思いませんでした」
「僕も驚いてるよ。あんたはたまに意地悪だ」
大げさなため息をついてみせたら、幽霊は苦笑した。
そこで、何かに気づいたように幽霊は外と僕とを見比べる。カーテンかかってて見えないのに……首を動かす回数があんまり多いもんだから、何が起きてしまったのかと僕は眉をひそめた。
「あれです、あれ、その、新月」
「新月」と僕はくりかえす。新月って、月の見えない日のこと……だったっけ。
「きみは夜がとても似合う。ですけど……月は似合わないんです」
一人で納得した様子の幽霊に、僕は何度目かわからないため息を送った。幽霊は慌てて僕に視線を向ける。何だかその様子が酷く滑稽なものに思えて、少しだけ気分がいい。
「夜と月はイコールで繋がりませんよ。きみには夜の暗がりと、その空気がすごく似合ってます。でも、誰かを照らす月には不適任だと思ったんです」
説明してくれる幽霊には悪いけど、僕はほとんど話を聞いてなかった。僕が光のない新月なら、あんたは光る月だ。青白いし、微妙に光ってるようにも見えなくもないし。
そう思ったままを口にしたら、幽霊はちょっと驚いたように目を開いて、それから自分の体を見回し始めた。髪の毛を引っ張って、服のしわを伸ばして、先っぽが空気に溶けている下半身を引っつかんだりしている。そのまま勢いでくるくる回りだして、なんだか僕より子供みたいになっている。
しばらく自分自身を観察した後、幽霊はかるいため息をついた。それは純粋に疲れによるもののようだった。
「なんだか気に入りませんね」
「気に入らない。なんで」
僕の質問に幽霊は答えない。珍しく意地の悪い笑みを浮かべて、僕を覗き込んでいるだけだ。ちょっとむかつくぞその顔。ああ、さわれるなら殴ってやるのに。
けれど今更僕らが触れ合えないことなど重々承知の事実で。僕はやり場のない苛立ちを抑えるために布団を頭からかぶった。幽霊が残念そうな声をあげたけど、無視だ無視。
幽霊は謝罪もしないけど、どこかへ行ってしまうということもしなかった。ただそこにいて、ふわふわと浮いているだけなのだろう。僕はそれに安心する。なんだかんだ言って、この幽霊は僕の望むことをしてくれるのだ。悔しいけど、悔しいけど。
僕は目を閉じる。幽霊が傍に居てくれるなら、僕はきっと多分、眠れる。いろんな感情を内包して僕は眠ろうとする。
死んだはずの彼の吐息が聞こえた気がした。